2025年


ーーー7/1−−−  寝る特技


 
リンゴ農園のアルバイトの昼休み。早々と昼食を済ませた後、リンゴの木の根元の小さい木陰に銀マットを敷き、横になって昼寝をする。他のメンバーは、車の中に入り、エンジンをかけたまま、つまりおそらくカーエアコンを入れたまま、昼寝をしているようだった。

 「リンゴの木陰の方が気持ちが良いのに」と私が言うと、カミさんは「そんな事をしたがる人は珍しいわよ」と返した。まともな人間は、農地の地面に転がって寝ることなどしないと言うのである。その主張には賛同しかねたが、その後に続いた「あなたはどこでも寝られるけど、そういう人ばかりじゃないのよ」と言う意見には、思い当たる節があった。

 いつでもどこでも寝られるというのは、大学山岳部の頃に身に付いたものだと思う。山の中はもとより、下界でも、駅の構内、バス停、橋の下などを、勝手気ままに寝場所を定めたものであった。もっとも、50年ちかく前の事だから、そういう事が許されたのかも知れないが。

 登山シーズンには、夜行列車は大変な混雑だった。その中で、快適に寝る態勢を作ることが必須だった。いち早く寝場所を確保するのが、登山の前の競争だったのである。座席に座ったまま寝る者もいれば、床に転がって寝る者もいたが、床の方が倍率が高かった。座席のシートを勝手に動かして、寝心地の改善を計る輩もいた。中には、網棚に上がって寝る猛者もいた。

 そんな夜行列車の中で、先輩から褒められた事があった。「大竹はたいしたものだ。登山靴を履いたまま寝ている」 と。




ーーー7/8−−−  力士の給食


 
相撲の荒汐部屋が、下諏訪町で恒例の合宿をした。公開稽古など、地元との交流が持たれた。そのなかで、力士が小学校へ出向いて、生徒と一緒に教室で給食を食べるというイベントもあり、地域のニュースで紹介された。部屋の若隆景関が教卓について黙々と給食を食べていた。生徒たちは、自分らの席で食べる。先生の代わりにお相撲さんが座っているということの外は、いつも通りの給食風景であった。

 給食が終わった後、生徒たちにインタビューがあった。ある生徒は、「お相撲さんが、めっちゃ丁寧に給食を食べていた」と、感じ入った様子で感想を述べた。たしかに、テレビの画面に映った関取は、豪快にガツガツ食べるという感じでは無く、ゆっくりとした所作で、かみしめるように食べていた。

 これはとても爽やかで、清々しい出来事であった。体が資本のお相撲さんは、食べることに対して真剣なのだ、という印象を、生徒は抱いたのだろう。それに気付いた生徒も素晴らしいが、無言のうちにそれを体現した関取も、立派であった。 




ーーー7/15−−−  異常気象の兆し


 この夏も、暑くなりそうである。当地でも、梅雨明けを待たずして猛暑日がポツポツ出現し、この先の暑さが思いやられる。

 4年前の夏、初めて奥の和室にエアコンを設置した。帰省する長女一家、特に孫たちが、夜暑くて寝苦しいだろうと想像した故の決断。私とカミさんだけなら、今まで通り扇風機などでしのぐが、都会のクーラーの生活に慣れた人たちには、エアコン無しでは辛いのではないかと想像したのである。

 今年は、次女が第二子を出産のため、6月末からおよそ3ヶ月間の予定で滞在する。そこで、娘と二歳の孫娘が泊まる部屋に、エアコンを設置した。設置のために来た業者は忙しそうだった。「穂高に移り住んだ30数年前には、エアコンを入れるなど想像もしなかったです」とカミさんが言うと、長髪で昔のグループサウンズを思わせる風体の男性は、「工事に伺ったお宅は、皆さんそうおっしゃいます」と答えた。

 地球規模の温暖化が、年々進んでいるのは間違いないと思われる。それでは、この傾向がいつごろから始まったのかと思い返せば、自分として明確に覚えている出来事がある。

 今から46、7年前の事だったと思うが、年末に友人たちと苗場スキー場へスキーをしに行った。現地に着いて見て驚いたのだが、スキー場の雪が極端に少なかった。麓の辺り、プリンスホテルの前のエリアなどは、ほとんど雪が無かった。所々に雪の付いた部分が見られるものの、それよりも冬枯れの草地の方がはるかに多かった。草地には合板が並べて敷かれており、通路のようになっていて、スキーヤーはその上を移動するように言われた。「スキーヤーの方は、フェアウエイに入らないで下さい」と言う場内アナウンスが繰り返されていた。通路の上を、スキーを履いたまま、バタンバタンと音を立てて、スキーヤーが移動する様は、まことに異様な光景だった。

 その当時は、地球温暖化という言葉はまだ一般的では無かったと思う。しかし、暖冬異変という言葉は使われ始めていた。その暖冬異変が、降雪量の減少につながり、スキー場が困っているなどというニュースも聞かれ始めていた。それをはっきりと目の前で体験したのが、あの苗場スキー場であった。目を疑うような光景に接して、「これは何かおかしな事が起きているな」と感じたのを記憶している。

 それからおよそ50年。「おかしな事」は着実に進行している。





ーーー7/22−−−  フカヒレスープの思い出


 フカヒレスープを食べる夢を見た。店は、子供の頃家族で出掛けた都心の中華料理店。今から思えば、相当高級な料理店だったのだろう。フカヒレスープがとても美味だったことを、今でも覚えている。その当時、父は三菱系の大企業で管理職を務めており、ときおり家族連れでこのような贅沢をやっていた。

 その後、国内の料理屋でフカヒレスープを頂いたことは無い。東京あたりなら、フカヒレスープを出す店もあるだろうが、そういう店に足が向かう機会は無かった。信州に越してからは、そのような料理は全く無縁であった。そもそも、フカヒレスープを扱っている店などあるのだろうか。以前、ある中華料理店のコース料理を食べる機会があった。フカヒレスープが出るというので、ちょっとワクワクしたが、本数が数えられるくらい少ないフカヒレが、ハルサメに混ざってスープに浮いているような代物で、がっかりした。

 前項で、「国内の料理屋で」と前置きしたのは理由がある。海外では美味しいフカヒレスープを食べたのである。それは、インドネシアはスマトラ島北部、アチェ州の外れの辺境の地にある、中華レストランだった。その近くに、化学プラントの建設現場があり、私は数ヶ月に渡って出張していた。その時のことである。

 街道筋からちょっと奥まった場所の、ヤシの木の下に建っている、小さな店だった。たぶん中国人が経営していたのだと思う。さえない店構えにしては、料理が美味しかった。白人の客と出くわすこともあったが、それは近くの天然ガスプラントに出入りしている連中だった。その当時東南アジア最大級と言われるガス田が開発され、米国企業が建設した巨大なLNGプラントが稼働していた。

 その店のメニューに「シャークフィン・スープ」があった。フカヒレスープのことである。束のようなフカヒレがスープに浮いていて、ゴージャスだった。子供の頃、東京の中華料理店で食べたのと同じ様で、とても美味だった。こんな場所で本格的なフカヒレスープを食べることが出来るとは、まさに驚きだった。そして、値段はとても安かった。ヤシの木陰の小さなレストランのフカヒレスープは、インドネシアの現場で過ごした厳しい日々の、数少ない楽しい想い出の一つとなっている。

 ただしその店も、いつでもフカヒレがあるわけでは無かった。やはり、入手するのが難しかったのだろう。「シャークフィン アダ か?」 と聞くと、現地人のウエイトレスが 「チダ アダ」 と返す。ありませんの意である。そういう時は、代わりに「フロッグレッグ・スープ」を頼んだ。食用ガエルの腿の肉が入ったスープであるが、これもけっこう美味だった。




ーーー7/29−−−  当確の不条理


 先日の参議院選挙でも、テレビの選挙報道で、投票終了と同時に当選確実が出たケースがあり、これに対して不正の疑いを唱える情報がSNS上で拡散して、ちょっとした騒ぎになったようである。

 そのような事例について、ネット上では、「当選確実の発表は、統計学に基づいて理論的に出しており、不正ではない。そういう科学的知識を持たない人たちのデマである」 と言うような主張が、何件か見られた。おそらくマスコミ関係者による弁明だと思われた。

 私は一応理科系の人間であり、学生時代に統計学も履修した。だから、速すぎる当選確実が、不正だとは思わない。しかし、毎度の選挙で感じるのは、開票をする前から当選者を発表することの不条理さである。

 放送局の仕事をしていた知人がいる。その人から以前聞いた話だが、国政選挙の投票日となると、放送局は異常な興奮状態に陥るのが常だったとのこと。開票速報専用の報道スペースが設けられ、他局のテレビ画面がずらりと並び、それを見ながら一刻も早く開票結果を報じようと躍起になる。普段は顔を見せないようなお偉いさんが特別席に陣取り、指揮を執る。そして夜遅くなれば、出前の寿司をとってスタッフ一同に振る舞う。まるでお祭り騒ぎのようだったと知人は言った。

 他局より一秒でも早く当確を流し、選挙事務所に押し掛けて当選者の第一声を取る。その争いがマスコミ関係者としての醍醐味なのだろう。それは分からなくもないが、そんな業界の競争がエスカレートして、社会に余計な波紋を与えるとすれば、それは本末転倒と呼ぶべきであろう。

 マスコミは、事前調査や、投票日の出口調査の結果から、当選確実を決めるのだろうが、一票を投じる市民の感情を、もっと尊重すべきでないかと思う。世論調査のようなやり方で、選挙の結果を判定するのでは、投票する意義が空しくなってしまう。まるで投票する前から、結果が決まっているかの印象を抱いてしまう。開票を行ない、その推移を確認した上で、結果を論じるべきだと思う。何故、開票結果が出るまでの数時間を、大人しく待てないのだろうか。

 冒頭に触れた、不正云々の話は、選挙そのものに対する不信ではなく、市民感情を軽視しているかのような、マスコミの選挙報道に対する不信の現れではないだろうか。